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福岡地方裁判所 昭和30年(ワ)475号 判決

原告 高木勝太郎

被告 山崎美朗 外一名

主文

被告山崎美朗は原告に対し

一、にわかの仮面の図形(別紙第二の(一))、二〇加又はにわかせんべいの文字又はその綜合になる商標及び黄褐色に着色したる罐に二〇加の黒色図形及び赤色の二〇加煎餅なる文字を以て表したる商標(別紙第三)並びにこれに類似する商標を使用し又は商品に同様の焼印、図形等を施して煎餅、饅頭、最中、おこし等の菓子類の製造販売拡布の所為をしてはならない。

二、別紙第四記載の条件で同記載の広告文面による謝罪広告をせよ。

原告その余の請求を棄却する。

訴訟費用中、原告と被告山崎美朗間に生じた分はこれを三分してその一を原告の、その余を同被告の、原告と被告山崎敏臣間に生じた分は原告の各負担とする。

事実

原告訴訟代理人は

「被告等はにわかの仮面の図形、二〇加又はにわかせんべいの文字又はその綜合になる商標並びに黄褐色に着色したる罐に二〇加の黒色図形及び赤色の二〇加煎餅なる文字をもつて表したる商標並びにこれに類似する商標を使用し、又は商品に同様の焼印、図形等を施して煎餅、饅頭、最中、おこし等の菓子類の製造販売拡布の所為をしてはならない。

被告等は別紙第五記載の写真入謝罪広告を朝日新聞(西部本社小倉市)、毎日新聞(西部本社門司市)、西日本新聞(福岡市)の各朝刊の西日本版全版通しにて表題は四倍活字で、又原告及び被告等の各住所店舗氏名は三倍活字の各ゴヂツクで、その他は二倍活字を用い半四段の紙面にて各新聞二回宛掲載せよ。

被告等は連帯して原告に対し金二百三十万八千八百円及びこれに対する訴状送達の翌日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。

訴訟費用は被告等の連帯負担とする。」

との判決並びに右第三項につき担保を条件とする仮執行の宣言を求め、その請求の原因として、

「原告は現在二〇加煎餅本舗高木東雲堂の屋号で、煎餅のほか、饅頭、最中、おこし等の菓子類の製造販売を業としている者であり、被告両名は山崎松陽堂の屋号で、原告同様菓子類の製造販売をなしているものである。

ところで現在高木東雲堂製品として広く全国的に博多名産として認められている二〇加煎餅は、原告の祖父高木喜七と父高木友太郎が明治四十二年頃神戸の瓦煎餅その他全国の主なる土産品を研究し博多土産品として煎餅その他の菓子類に、別紙第二の(一)記載のような博多にわかの半面の図形、又は二〇加の文字或はその組合わせをもつて意匠及び商標として使用することを考案した結果、出来たものであるが、右友太郎はその考案したところに従い先ず明治四十二年十月二十七日意匠登録第五五五三号の意匠権を獲得し、引きつゞいて明治四十三年三月一日商標登録第三九八二〇号の商標権を得、爾来多数の類似商標について聯合商標の登録をなし、別紙第一の(一)記載の如き多数の商標権を得て、煎餅のほか饅頭、最中、おこし等の菓子類の製造販売をなし来つたものである。

この間大正六年中前記友太郎と被告美朗との間に、にわか煎餅について商標法違反の告訴事件や特許審判事件が発生したが、右審判の結果は被告美朗が敗れ、更に大正九年には福岡地方裁判所に商標権移転等請求事件が係属するに至つたところ、大正十年五月十八日被告美朗が敗訴となつて該事件は確定するに至つたので、前記各商標権は高木友太郎にその帰属が確定した。

しかして昭和二十二年三月右各商標権を営業と共に引きついだ原告は、更ににわか半面や二〇加の名称或はこれらを結合した商標の登録をなし、別紙第二の(二)記載の如く多数の商標権を得て菓子類のみならず広く寿司、弁当、書籍、雑誌類にまで及ぼし、高木東雲堂の名のもとに営業上使用しているが、その商標権は前記友太郎より引きついだ各商標権を併せて現在四十三の多数に及んでいる。

しかるところ先代友太郎死亡の前後より二〇加煎餅の味が悪いとか、バラの二〇加煎餅が売出されているとか色々の風評や忠告があつたので、調査したところ、被告美朗、同敏臣父子は昭和二十五、六年頃より共同して、前記二〇加の文字及び面の登録商標を煎餅のほか饅頭、最中、おこし等に及んで広く菓子類に使用し、その形状着色は勿論、包装紙、かけ紙、横張紙、チラシ、レツテル、シオリ由来書に至るまで、甚しく原告の製品に類似せしめて原告の商標権を侵害し、今日に至つていることが判明したので、原告はその侵害禁止を被告等に要求したが同人等はいまだに各所に原告の商標権を侵害した看板、標識を掲げ、数十ケ所の小売店を通じて原告の製品より品質粗悪な類似品を福岡県下一円に販売して益々原告の商標権を侵害し、且つその営業を妨害して原告店舗の信用を著しく毀損している。

かくして原告の営業は多大の被害を受けているのに反し、被告等は原告の商標権を侵害して類似模造製品を販売することにより、昭和二十六年に金二百万円の収入を得て金四十六万円を所得し、昭和二十七年に金二百五十万円の収入を得て金五十万円を所得し、昭和二十八年に金二百八十九万円の収入を得て金五十五万円を所得し、昭和二十九年に金八百七十万円の収入を得て金六十五万九千九百円を所得し、昭和三十年四月までに金二百四十万七千百円の収入を得て金十三万八千九百円を所得しているが、これら所得額の合計金二百三十万八千八百円は、被告等が原告の商標権を侵害してにわか半面等の商標を煎餅のほか饅頭、最中、おこし等被告営業の全般にわたつて冒用することにより、原告の営業上の信用を妨害し、且つ売上収益を阻害して原告に蒙らしめた損害額に相当する。

よつて原告は自己の商標権の確立、並びに優良名産品の品質と信用を保全し且つは一般顧客の愛顧に報ゆるべく、請求の趣旨記載どおり登録商標並びこれに類似する商標使用差止め及び謝罪広告、並びに損害の賠償を求めるため本訴に及んだ。」

と陳述し、被告等の答弁並びに抗弁に対し

「被告等は、被告敏臣は被告美朗の家族の一員で共同営業を営むものではないと主張しているが、仮りにそうだとしても同人は父美朗と共に営業にたづさわり、特に被告敏臣において店舗等を所有し、原料の仕入、販売、経理に当つているのであるから、同被告が父美朗と共に原告の商標権を侵害していることは明白で、当然共同不法行為者としてその責任は免れ得ないものである。

被告美朗の営業廃止による商標権消滅の抗弁について、

原告先代高木友太郎が大正九年三月その弟高木純一に商標権を譲渡したこと、純一が大正十三年六月十三日に死亡し、その子高木孝太郎が相続により右商標権を取得したこと及び右孝太郎が昭和三年十二月二十四日合名会社高木東雲堂を設立し同会社に菓子の製造販売を移したことは認めるが、前記商標権は営業と共に右合名会社高木東雲堂に移されているもので同人の営業廃止により消滅したことはない。すなわち右孝太郎の商標権が公簿上昭和九年二月一日又は昭和十一年四月二十日に合名会社高木東雲堂に移されたことになつているのは、会社設立と同時に商標権も右会社に譲渡され、会社は営業上商標権を専用して来たものであるが、その登録手続を各商標権の期間満了による更新登録手続の時期に合わせて便宜上移転登録も同時に申請したからに過ぎず商標権の存在に影響はない。

しかして合名会社高木東雲堂は昭和三年十二月二十四日設立され昭和二十二年三月三日営業と共に商標権を原告に譲渡するまで、二〇加煎餅その他菓子類の製造販売を継続してきたものであつて、その間営業を廃止したことはない。右会社が昭和十二年七月一日一時商号を高木殖産合名会社と変更したのは不動産等の財産保全の便宜のためであつて、会社の目的に土地、建物の取得並びに金融業を追加する筈であつたところ、誤つて本来の営業目的たる菓子の製造販売が削除され、あたかも営業目的を変更したかのような登記簿の記載になつていることが後日発見されたので、昭和十五年四月十八日商号を更に合名会社高木東雲堂と改めると共に、会社の目的に菓子の製造販売を加えて事実に反する登記簿上の誤謬を訂正したに過ぎず、その間高木東雲堂として菓子の製造販売は継続しており、営業を廃止したことはない。

次に被告美朗の使用許諾の抗弁について。

大正七年作成の公正証書において原告先代高木友太郎が同人の商標登録第八四四七八号の商標権を被告美朗に譲渡、使用許諾を約したことは認めるが、これは右友太郎の法律の不知に起因するもので、右約定は聯合商標の一部譲渡に該当し、法律の移転禁止にもとる無効の契約であつた。このことは被告美朗より友太郎に対する、福岡地方裁判所の商標権移転登録手続及び損害賠償請求事件について言渡された大正十年五月十八日の被告美朗敗訴の判決において明示せられたところで、その結果前記商標権の帰属及び専用は友太郎に確定されたものである。その後右友太郎は大正十年七月より大正十一年六月までに問題の商標、登録第八四四七八号と同一又は類似のチヨンマゲ等の意匠登録をなし、大正十三年十月には回復登録までなしている程であつて、被告の抗弁するように前記判決後更に間部房丸等博多にわか師の仲裁により、右商標を被告美朗に引続き使用させるような和解を約諾する筈がない。しかも被告の主張する商標権の譲渡契約は商標法第十二条第一項、第三項による営業の伴わない商標権の移転又は聯合商標の分離移転に当り、いづれも法の認めざるところである。又商標権と分離してその使用権のみを処分し、もつて商標権者にあらざる者をしてその者の営業に係る商品に商標権者専用の商標権を使用させるが如きは、商標法第七条、第十二条の規定に背馳し、取引者、需要者にとり商品の混同誤認に基づく不測の損害を招来するに至るから、無効といわねばならない。

更に被告美朗の先使用の抗弁について。

被告美朗に先使用の事実も、又今日まで一度もその主張をした事実も存しない。すなわち前掲大正六年の商標法違反告訴事件に際しても、更にその後の特許審判事件においても、又大正七年の和解に際しても、次に大正九年の前記訴訟事件においても、近くは昭和三十年九月一日訴外間部房丸外五名より原、被告双方を相手取つて福岡地方裁判所に提起された考案権確認、半面図形名称使用禁止、及び商標登録抹消登録手続請求事件においても、被告等が先使用権を有していたとの主張は全くなされていないばかりか、被告等が先使用の根拠をして提出した乙第十五号証の写真には、その裏面に『明治三十八年五月十五日影ス』との記載があるけれども、右写真の台紙には『博多古門戸町ニコニコ写真館T.HIODO』の記載があり、証人兵頭ヒサヨの証言から明らかなようにT.HIODOとは写真師兵頭多平のことで、同人は大正三年八月二十五日広島県より福岡市に転入し大正九年四月一日死亡しているから、前記『明治三十八年五月十五日影ス』の文字は全くの虚偽で、後日記入されたことが明らかである。それ故右写真は被告等の先使用を裏付ける根拠となり得るものでは毛頭ない。

しかして問題の商標登録第八四四七八号(別紙第二の(二)の面)の商標権に限つてみても、これが大正六年二月二十三日に登録され二十年を経過した昭和十二年二月二十三日期間満了したことは事実であるが、更に同年三月四日附継続出願により登録第三〇四三六六号聯合商標として登録されているのであつて、もともと前記登録第八四四七八号は登録第三九八二〇号ほか八つの聯合商標となつているから、他の聯合商標によつて充分その権利は確保される性質のものであり、しかもそれは類似商標として原告方にのみ登録が可能なものであるから被告美朗のこの類似商標の使用は結局他の聯合商標を侵害するものといわざるを得ず、被告等に先使用権の発生する余地は全くないものといわねばならない。」と述べ

立証として、甲第一号証、第二号証の一乃至七、第三号証の一乃至十二、第四号証の一乃至十、第五乃至第十一号証、第十二号証の一乃至五、第十三号証の一乃至四十三、第十四、第十五号証、第十六号証の一乃至四、第十七号証、第十八号証の一乃至三、第十九号証の一乃至五、第二十号証の一乃至三、第二十一号証の一乃至十三第二十二号証の一乃至六、第二十三号証の一乃至十二、第二十四号証の一乃至十一、第二十五号証の一乃至十二、第二十六乃至第二十八号証、第二十九号証の一乃至四、第三十、第三十一号証、第三十二、第三十三号証の各一、二、第三十四号証の一乃至四、第三十五号証、第三十六号証の一乃至四、第三十七、第三十八号証、第三十九号証の一乃至九、第四十、第四十一号証、第四十二号証の一乃至三、第四十三号証の一乃至九、第四十四、第四十五号証、第四十六号証の一乃至六、第四十七号証の一乃至五、第四十八号証の一、二第四十九号証の一乃至三、第五十号証、第五十一号証の一、二、第五十二乃至第五十四号証、第五十五号証の一、二、第五十六号証、第五十七号証の一乃至七、第五十八号証、第五十九号証の一乃至四第六十、第六十一号証の各一、二、第六十二号証の一乃至四、第六十三号証乃至第六十七号証、第六十八号証の一、二、第六十九号証を提出し、証人高松小十(第一、二回)、同高木万次郎(第一、二回)、同高木アサ、同高塚富太郎、同桜木謙澄、同久保透、同高木喜三郎、同平田定吉、同後藤長蔵、同窪広太、同高木良助、同大井義人、同井上貢、同中島秋次郎、同吉岡安雄、同兵頭ヒサヨ、同立山光雪の各証言及び原告本人尋問の結果を援用し、乙第四号証、第十四号証、第十五号証はいづれも不知、その余の乙号各証は成立を認め、乙第五、第六、第七号証を利益に援用する、なお乙第一号証の公正証書は福岡地方裁判所大正九年(ナ)第二五八号商標権移転登録並損害賠償請求事件につき大正十年五月十八日言渡された判決(甲第十五号証)により無効となつたものであり、乙第十五号証の裏面に記載してある「明治三十八年五月十五日影ス」との文字は後日虚偽の年月日を記入したものであると述べた。

被告等訴訟代理人は

「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決並びに被告等敗訴の場合仮執行免脱の宣言を求め、答弁並びに抗弁として

「被告山崎美朗が山崎松陽堂の屋号で、煎餅、饅頭、最中、おこし等広く菓手類の製造販売をなしていること、大正六年頃訴外高木友太郎と被告美朗との間に商標法違反の告訴事件や審判事件が発生したこと、更に大正九年福岡地方裁判所に、被告美朗より右友太郎を相手とした商標権移転等請求事件が係属し、該訴訟が大正十年五月十八日被告美朗の敗訴となり確定したことは認めるが、訴外高木友太郎が博多にわかに使用する仮面を煎餅に用いることを創案してその商標登録をなし、更に多数の類似商標について聯合商標の登録をなしたことは知らない、その他の事実はすべて争う。特に被告山崎敏臣は被告美朗の長男で父の家業に従事しているに過ぎず、共同事業を営んでいる者ではない。

ところで仮りに被告美朗が原告の商標権を侵害しているとしても原告が右友太郎より営業と共に引き継いだと称する別紙第一の登録商標(一)記載の各商標権は単に形式的に商標登録がなされているに過ぎず、次のような事情から既に消滅しているものであるから、それ以前より別紙第二の(三)記載の面を使用して煎餅ほか饅頭、最中、おこし等の菓子類を製造販売している被告美朗に対し、その差止めを請求する権利は存しない。すなわち

(一)  原告先代高木友太郎は大正九年三月三十一日その商標権を同人の弟高木純一に譲渡したが、大正十三年六月十三日右純一が死亡した結果、その商標権はその子高木孝太郎が相続した。右孝太郎は昭和三年十二月二十四日合名会社高木東雲堂を設立して煎餅の製造販売を右会社に移したが、その保有する前記各商標権はその後七年半の日時を経過した昭和十一年四月二十日合名会社高木東雲堂に譲渡されるに至つている。したがつて右七年有半の間、高木孝太郎はその商標権を単に形式的に保有したものであるに過ぎず営業を伴わないものであつたから、前記各商標権は右孝太郎が合名会社高木東雲堂に煎餅その他の製造販売を移すことによつて同人の営業を廃止したときから、実質上消滅しているものといわねばならない。

(二)  その上右の合名会社高木東雲堂は昭和十二年七月一日会社の商号を高木殖産合名会社と変更すると共に、営業目的も又変更して従来の菓子製造販売を廃止し、土地建物の取得並びに金融業を営むに至つている。したがつて右合名会社高木東雲堂が仮りに前記孝太郎よりその商標権を有効に譲渡されたとしても、その後営業目的の変更による菓子製造販売の営業廃止によりその商標権は消滅している。

仮りに前記各商標権が消滅していないとしても、被告が別紙第二の(三)記載の面を使用して煎餅、饅頭、最中、おこし等の製造販売をすることについては、原告先代高木友太郎から同人の有する別紙第二の(二)記載の面(もと商標登録第八四四七八号)の譲渡を受ける約を得てその使用許諾を得ているから、それを引き継いだ原告から差止めを受ける謂れはない。すなわち冒頭記載のように大正六年原告先代高木友太郎と被告美朗との間には商標権侵害をめぐつての紛争が惹起されたが、大正七年十二月二十六日両者間に和解が成立し、公証人辛木秀夫役場で商号、商標及び意匠権に関する公正証書が作成されてその落着をみた。右公正証書によると、『被告美朗は二〇加なる文字を使用しないこと、商号中二〇加の文字を抹消すること。被告美朗の権利に属する博多蓮根登録第一三一二一号の意匠権を無償で高木友太郎に譲渡すること、一方友太郎はその権利に属する登録第八四四七八号(別紙第二の(二)記載の面)の商標権を無償で被告美朗に譲渡すること、右商標は永久に博多煎餅の名称で使用し、前記友太郎は右使用を認めること』等の定めであつて、被告美朗は右和解条項に従い、従来使用して来た商号から『二〇加』の文字を抹消して『ハカタ煎餅屋松陽堂』と改めると共に、博多蓮根登録第一三一二一号意匠権を右友太郎に譲渡したが、友太郎はその代償として被告に譲渡すべき商標登録第八四四七八号の商標権の譲渡手続を実行しなかつたので、被告は大正九年頃右友太郎を相手取り、商標権移転登録手続並びに損害賠償請求訴訟を福岡地方裁判所に提起したところ、大正十年五月十八日友太郎が被告美朗に譲渡を約した前記商標は聯合商標であり、その一部の譲渡は許されないとの理由で第一審は被告美朗の敗訴に終つたが、右友太郎は前記の如く右商標の使用を認めており、被告美朗はこれを使用していたので、当然右の商標については聯合を解放して被告に移転すべきものであるから右判決に対し控訴の手続を採るべく準備中、訴外間部房丸等博多にわか師の仲裁により、右商標を被告が使用することを許諾することで再び前記両者間に和解が成立し、控訴は取止めるに至つたものである。爾来本件訴訟に至るまで三十五年間何人からも異議を差しはさまれたこともなく、その使用を継続してきたものである。

若し仮りに使用許諾の事実が認められないとしても、被告美朗には次のような先使用の事実があるから原告から差止めを受ける理由はない。すなわち被告美朗の先代山崎宗三郎は、原告先代高木友太郎と殆ど同じ頃『はかた二〇加せんべい』の製造販売を始め、友太郎が大正六年二月二十三日別紙第二の(二)記載の面について商標登録第八四四七八号の商標権を取得する以前から、別紙第二の(三)記載のチヨンマゲ半面の意匠をもつて『はかた二〇加煎餅』の製造販売を業としていたもので、明治三十七年当時の九州鉄道株式会社により吉塚駅が開設せられるや、同駅構内で茶店営業を出願し、その許可を得て菓子、果物、玉子、煙草、燐寸、飲料水、玩具等旅行用品や小間物等を販売したが、明治三十八年には右吉塚駅構内に山崎松陽堂(被告店舗の屋号)の支店を開設した。その当時右駅構内で販売していた商品中に前記チヨンマゲ半面(別紙第二の(三)記載の面)の意匠を商標とした『はかたせんべい』があつたのである。その後右九州鉄道株式会社の鉄道事業は国営に移され、九州帝国鉄道管理局、門司鉄道局と管理の名称は変更されたが、吉塚駅構内における被告先代の営業は年々更新され、昭和十九年二月二十三日先代山崎宗三郎の死亡により駅構内茶店営業人名義は被告美朗に変更された。これより先明治四十三年福岡市で開催された九州沖繩八県連合共進会、大正五年福岡市で開催された東亜勧業博覧会にも被告先代は原告先代同様、博多のみやげ名菓としてにわか面を商標とする『はかたにわかせんべい』を製造販売していたのである。したがつて被告先代は原告先代高木友太郎が大正六年二月二十三日前記商標権を獲得する以前の明治三十年代より、別紙第二の(三)記載のチヨンマゲ半面の意匠を商標として煎餅の製造販売を広く公然と営業して世間に親しまれて来たものであつて、これを受け継いだ被告美朗には先使用権があるばかりでなく、前記登録第八四四七八号の商標権は昭和十二年二月二十三日商標権の有効期間満了と共に消滅したものを、合名会社高木東雲堂が昭和十三年七月十四日登録第三〇四三六六号として再登録しているのであるから、たとえ原告が現在商標権者であるとしても、被告の前記チヨンマゲ半面の使用を妨害することはできない筈である。」と述べ、

立証として、乙第一乃至第十六号証を提出し、証人間部房丸、同大中啓市、同中村源三郎の各証言及び被告山崎美朗(第一、二回)同山崎敏臣各本人尋問の結果を援用し、甲第一号証、第二号証の一乃至七、第三号証の一乃至十二、第四号証の一乃至十、第五号証乃至第十一号証、第十二号証の一乃至五、第十三号証の一乃至四十三第十四号証、第十五号証、第三十三号証の一、二、第三十七号証、第四十三号証の一乃至九、第四十六号証の二乃至六、第四十七号証の二乃至五、第四十九号証の一乃至三、第五十二号証、第五十三号証、第五十五号証の二、第五十六号証、第六十一号証の一、二、第六十二号証の一乃至四、第六十三号証乃至第六十五号証、第六十九号証はいづれもその成立を認め、甲第五十五号証の一は郵便官署作成部分の成立は認めるが、その余の部分は不知、甲第五十七号証の四及び同号証の六については不知、但しその意匠登録の査定を受けた事実は認める、その余の甲号各証はいづれも不知、甲第三十三号証の一、二及び甲第四十七号証の二はいづれも利益に援用すると述べた。

理由

一、被告山崎美朗に対する請求について。

被告山崎美朗が山崎松陽堂の屋号で煎餅、饅頭、最中、おこし等の菓子類の製造販売をなしていることは当事者間に争がなく、原告が現在二〇加煎餅本舖高木東雲堂の屋号で煎餅、饅頭、最中、おこし等の菓子類の製造販売をなしていることは弁論の全趣旨に徴し当事者間に争がない。

証人高木良助の証言により同人の撮影にかゝる写真であることが認められその被写体につき当事者間に争のない甲第四十六号証の二乃至六、弁論の全趣旨に徴し原告使用中の由来書及び包装紙であることが認められる甲第四十八号証の一、二、被告美朗使用中の由来書及び包装紙であることは当事者間に争のない甲第四十九号証の一乃至三と証人高木良助の証言及び被告山崎敏臣本人尋問の結果によれば、

原告が別紙第二の(一)記載のような面(以下にわか面と称する)と同第二の(四)記載のような「二〇加」なる文字を、その製品、容器(別紙第三記載のような全体を黄褐色に着色し二〇加の黒色図形と赤色の二〇加煎餅なる文字を組合わせた図形を印刷した罐、及び別紙第二の(一)の仮面を印刷した紙箱)由来書、包装紙等に用い、「二〇加煎餅」「二〇加饅頭」、「二〇加もなか」、「二〇加おこし」等の呼称で、煎餅、饅頭、最中、おこし等の菓子類を製造販売していること、被告美朗が別紙第二の(三)記載の面(以下チヨンマゲ半面と称する)と「博多」もしくは「はかた」及び「博多二〇加」なる文字を、その製品、容器(罐入、紙箱入)、由来書、包装紙等に用い、「はかた煎餅」、「博多二〇加せんべい」、「はかた萬寿」、「はかた最中」、「博多おこし」等の呼称で、煎餅、饅頭、最中、おこし等の菓子類を製造販売していることを認めることができる。

しかしていづれも成立に争のない甲第一号証、第二号証の一乃至七、第三号証の一乃至十二、第四号証の一乃至十、第五乃至第九号証、第十三号証の一乃至四十三、及び第六十九号証によれば、

原告が別紙第一記載の登録商標(一)、(二)合計四十三に及ぶ商標権を有すること、そして右(一)の登録商標は原告が合名会社高木東雲堂より譲渡を受けたものであり、右(二)のそれはその後原告が新たに商標登録をなしたものであること、且つそれらの商標は登録第二九八〇八四号、同第四三九五五六号を除いて互にその一部づゝの聯合商標となつていること、及びそれらの商標はその基本部分が別紙第二の(一)記載のにわか面及び同第二の(四)記載の二〇加、或は「にわか」等の文字や、それらの組合わせ(着色の点も含む)によつて成り、広く煎餅をはじめとして菓子、麺麭、蒸菓子、寿司、弁当、書籍、雑誌類等(指定商品、第四十三類、第四十五類、第六十六類)に及んでいること並びに別紙第二の(二)記載の面が原告の有する商標権のうち別紙第一の(一)末尾の登録第三〇四三六六号(もと登録第八四四七八号)であることなどが認められる。

そこで被告美朗が前記チヨンマゲ半面及び「はかた」「博多」、もしくは「博多二〇加」なる文字をその製品、容器、由来書、包装紙等に用いて煎餅、饅頭、最中、おこし等の菓子類を製造販売することによつて原告の前記商標権を侵害しているか否かにつき判断する。

前掲甲第四十六号証の二乃至六、第四十八号証の一、二、第四十九号証の一乃至三、前記高木良助証言により同証人の撮影に係る写真であることが認められると共にその被写体につき当事者間に争のない甲第四十七号証の二乃至五、その記載の体裁、内容から菓子経済新聞と称する週刊紙であることが認められる甲第五十号証によれば

原告使用中のにわか面(別紙第二の(一)記載の面)と被告美朗使用中のチヨンマゲ半面(別紙第二の(三)記載の面)とは専らチヨンマゲの有無のみが相違しているだけであり、更に右チヨンマゲ半面と前掲登録第三〇四三六六号の面(別紙第二の(二)記載の面)とは二〇加面を基礎としている点、及びチヨンマゲのある点はいづれも同様で僅かにチヨンマゲの形状、長さ等に幾分の相違が認められるに過ぎず、更に原告使用中の別紙第三記載の文字及び図形の組合わせになる商標を附した容器(罐の部分)と被告使用中の容器(罐の部分)とは右に述べた仮面図形及び「二〇加」と「はかた」の文字の相違はあるけれども着色、文字の配置は殆ど差異を認めず右の別紙第二の(一)、(二)、(三)の面及び別紙第三の文字図形並びに「二〇加」の文字(別紙第二の(四))が同一商品や容器等に使用された場合、商品の混同を生じその出所を誤認させることが窺われること、しかして右にわか面を用いた原告の製品、容器、由来書、包装紙等とチヨンマゲ半面を用いた被告美朗の製品、容器、由来書、包装紙、看板等はいづれも全く同一とはいい得ないにしても甚しく類似し、その外観、称呼、観念の点からして紛らわしく、一見して商品の混同、誤認を生ずることなどを認めるに充分である。したがつて被告美朗の使用しているチヨンマゲ半面や博多二〇加せんべいなる文字は、原告の別紙第一の(一)、(二)記載の登録商標の範囲に属し、同人が右チヨンマゲ半面や二〇加の文字を煎餅、饅頭、最中、おこし等の菓子類やその容器、由来書、包装紙等に用いて製造販売し且つそれを宣伝することは原告の商標権を侵害する行為だといわねばならない。

しかるところ被告美朗は、仮りに商標権侵害の事実ありとしても、原告が訴外高木友太郎から営業と共に引き継いだと称する別紙第一の(一)記載の各商標権は営業の廃止により消滅している旨抗弁するので判断する。

(一)  原告先代高木友太郎が大正九年三月その弟高木純一に別紙第一の(一)記載の各商標権を譲渡し、大正十三年六月十三日右純一が死亡したため、右各商標権はその子高木孝太郎に相続承継されたこと、及び右孝太郎が昭和三年十二月二十四日合名会社高木東雲堂を設立し、これに菓子類の製造販売を移したことは当事者間に争がない。

いづれも成立に争のない乙第三号証と甲第十三号証の一乃至三十五によれば、

合名会社高木東雲堂は菓子の製造並びにその他物品販売を目的として昭和三年十二月二十四日設立され(設立年月日の点は争がない)同月二十七日その旨の登記がなされていること、しかして現在原告に帰属している別紙第一の(一)記載の各商標権のうち登録第二九八〇八四号、同第三〇四三六五号、同第三〇四三六六号の商標権を除いて(これらの商標権はいづれも合名会社高木東雲堂として取得されている)、その余の各商標権はすべて訴外高木孝太郎より合名会社高木東雲堂に譲渡されていること、そのうち登録第六五一一八号、第九一二〇二号、第一一七三〇八号、第一一七三〇九号、第一三〇〇五六号、第一三〇〇五七号、第一三〇〇五八号、第一三〇〇五九号、第一三〇〇六〇号、第一三〇〇六一号、第一三〇〇六二号の合計十一の各商標権の譲渡は昭和九年二月一日になされており、以上の商標権を除いたその余の合計二十一の商標権は昭和十一年四月二十日に譲渡されていて、前記合名会社高木東雲堂の設立された昭和三年十二月二十四日より約五年後又は七年四ケ月後に前記各商標権が譲渡された形式になつていることを認めることができる。

しかしながら前記乙第三号証に証人高木萬次郎(第一回)、同高塚富太郎の各証言を綜合すれば、

合名会社高木東雲堂は高木一族の同族会社であつて、前記孝太郎はその代表社員となつて営業を継続していたもので、しかも本家の高木友太郎がその営業について一切の指図をしていたこと、及び右孝太郎には他に職業もなかつたことなどが窺われるのであつて、これらの事実から考えると合名会社高木東雲堂と右孝太郎は形式的には別個の人格とはいうものの、実質は一身同体とも評し得る関係にあり、従来の個人企業を会社組織に改めたに過ぎず右孝太郎において会社設立と同時に営業並びに前記各商標権を右合名会社に移転したことは容易に推認され得るところであつてたゞ公簿上の記載の上で数年の日時を経過して商標権の譲渡がなされているの一事をもつて営業の廃止があつたとは解し得ない。蓋し前認定の如き事実からすれば、右孝太郎に主観的に営業廃止の意思があつたとは考え得られないところであり、客観的にも同人は代表社員となつて合名会社の名のもとで営業を存続していたからである。

(二)  しかして前掲乙第三号証によれば、登記簿上前記合名会社高木東雲堂は昭和十二年七月一日会社商号を高木殖産合名会社と改めると共に、営業目的も従来の「菓子の製造並びにその他物品の販売」から「土地、建物取得並びに金融業」と変更され、昭和十五年四月十八日再び商号を合名会社高木東雲堂と改め、その営業目的に「菓子の製造販売」を追加するまでの間、被告美朗の主張するように菓子の製造販売を廃止したような記載になつているけれども、以上の登記簿上の記載は後記認定するような事情のもとになされているので、右記載は実際上も営業の廃止があつたとして被告の主張を認める証拠とはなし難い。

すなわち成立に争のない甲第三十三号証の一、二、証人高塚富太郎の証言により真正に成立したものと認められる甲第十六号証の一乃至四、証人高木萬次郎の証言(第一回)とその記載の体裁、内容からいづれも真正に成立したものと認められる甲第十八号証の一乃至三、第十九号証の一乃至五、第二十号証の一乃至三、第二十一号証の一乃至十三、第二十二号証の一乃至六、第二十三号証の一乃至十二、第二十四号証の一乃至十一、第二十五号証の一乃至十二、第二十六乃至第二十八号証、第二十九号証の一乃至四、第三十、第三十一号証、第三十二号証の一、二、第三十四号証の一乃至四、第三十五号証の各記載に、証人高塚富太郎、同高木萬次郎(第一回)、同高木アサ、同桜木謙澄、同久保透、同高木喜三郎の各証言及び原告並びに被告美朗の各本人尋問(第一回)の結果を綜合すれば、

前記のように登記簿上の記載が、合名会社高木東雲堂は昭和十二年七月一日会社商号を高木殖産合名会社と改めると共に、その営業目的も従来の菓子製造、物品販売から土地建物の取得並びに金融業に変更され、更に昭和十五年四月十八日再び商号を合名会社高木東雲堂に改め、営業目的に菓子の製造販売が追加された経過になつているのは、その当時合名会社高木東雲堂の経理顧問をしていた経理士高塚富太郎が税金関係の処理のため、営業目的に土地建物の取得並びに金融業を追加することを提案してそれが容れられ、その旨の登記に際して、誤つて本来の営業目的たる菓子の製造販売が削除され、あたかも営業目的が土地建物の取得並びに金融業に全面的に変更されたかのように記載されたので、その後これに気付いた原告の方では昭和十五年四月十八日再び商号を合名会社高木東雲堂と改めると共に、営業目的に菓子の製造販売を追加したこと、しかして右変更の期間、すなわち昭和十二年七月十一日より同十五年四月十八日までの間も高木東雲堂においては継続して従前同様二〇加煎餅はじめ菓子類の製造販売をなしていて、そのため必要な燃料、砂糖、原料、容器類の仕入や、販売先に対する代金請求、或は労務関係の報告書類等を関係官庁に提出していること、及びその間代表社員であつた高木孝太郎は菓子博覧会での記念状、感謝状を得ていることなどが認められる。証人大中啓市の証言中以上の認定に反する部分は単なる噂として同証人が聞知したと言うに過ぎず、他に以上の認定を覆えすに足りる証拠はない。

してみれば営業廃止による商標権消滅に関する被告美朗の抗弁はいづれも採用することができない。

次に被告美朗は、原告先代高木友太郎から大正七年以来同人の有する別紙第二の(二)記載の面、すなわちもと登録第八四四七八号の商標権につきその使用を許諾されている旨主張する。

ところで他人に商標権の使用権のみを与えることができるか否かについては疑問の存するところであるが、商標権が純然たる財産権であつても、この権利を認めた法意は商標権者の営業上の利益を保護すると共に他方商標権者以外のものがその使用により商品の混同誤認を生じさせることから生ずる不測の損害を予防することをも目的としているものであるから、その使用権のみを処分することは法の許さないところであると解するのが相当であつて、本件の如く聯合商標の一部の使用許諾というに至つては商標法第十二条の移転制限の趣旨からしても到底許されないというべきである。そればかりでなく後記認定するように、本件訴訟に至るまでの経過からしても、前記友太郎が被告の主張するように使用を許した事蹟は窺えないので、この点に関する被告美朗の抗弁も理由がない。

すなわち各成立に争のない乙第一号証と甲第十四、第十五号証第六十一号証の一、二、原告本人尋問の結果により真正に成立したものと認められる甲第四十号証、その体裁及び記載内容から当裁判所が真正に成立したものと認める甲第四十二号証の一乃至三、第五十七号証の一、第五十八号証、第五十九号証の一に、証人高松小十(第一回)同高木萬次郎(第一回)、同間部房丸、同平田定吉、同窪広太の各証言及び原告本人尋問の結果を綜合すれば、

原告先代高木友太郎は大正六年十月六日被告美朗を相手として商標権侵害を理由に福岡区裁判所検事局に告訴し、(告訴事件の存在について当事者間に争がない)更に商標権権利範囲確認審判事件を提起し(審判事件の存在したことも争がない)て勝訴したが、その後高松小十、間部房丸等が仲裁に入り結局大正七年十二月二十六日被告美朗は二〇加なる意義語呂に通ずる文字、図形、記号を使用しないこと、且つ「博多二〇加煎餅屋松陽堂」なる商号の中から「二〇加」の三字を抹消すること、並びに「二〇加」なる文字入レツテルは使用しないこと、その権利に属する博多蓮根登録第一三一二一号の意匠権を無償で右友太郎に譲渡する代りに、友太郎はその権利に属する聯合商標の一部である登録第八四四七八号(別紙第二の(二)記載の面現在登録第三〇四三六六号)を無償で被告美朗に譲渡し、永久に博多煎餅の名称で使用させること(この点当事者間に争がない)等の内容を有する公正証書が作成されて和解が成立したこと、ところが聯合商標はその一部を切り離して譲渡することができないところから、前記登録第八四四七八号の商標権の譲渡を受けられなかつた被告美朗は、大正九年頃前記友太郎を相手取り商標権移転登録手続並びに損害賠償の訴を当庁に提起し、右登録第八四四七八号の商標権のみならずこれと聯合するすべての聯合商標の移転並びに損害賠償として金三万円、そして右移転登録不履行の場合金五万円の損害賠償を訴求して敗訴したこと、ところで右訴訟の進行中被告美朗側より示談の話が持ち込まれたが、友太郎はこれを拒絶したこと、その後右友太郎の各商標権は前記の如く弟純一、その子孝太郎を経て合名会社高木東雲堂に、更に原告へと引き継がれていたが、昭和二十九年十一月頃被告美朗の代理人として訴外大野甚より原告方に、「被告美朗も年寄りになり、子供にはつきりしたものを残してやりたい希望があるので、子供同志の名で非公式の取り極めでもしたい。今後山崎松陽堂の製品を偽物などと誹謗することは止めて欲しい」旨の申入がなされたが、原告側では数年前よりバラの二〇加煎餅が出ているとか、煎餅の味がわるいとかの風評を聞いていた時でもありその申入を拒絶し、その後調査や準備に時を費した後、昭和三十年五月頃に至つて仮処分の申請更に本訴の提起がなされていること、ところが同じ頃に訴外間部房丸ほか四名が博多二〇加芸術協会なる団体の名のもとに原、被告双方を相手取つてにわか面につき考案権確認等の訴を提起したので、原告は直ちに商標権確認等の反訴を起して勝訴するに至つたが、被告等は右間部側の主張を殆ど認めていること、もともとにわかやにわか面等は三百年来民衆の間から自然発生的に発生したもので職業としてのにわか師が考案して専有権を有していたものではなかつたことなどを認めることが出来る。

以上認定の諸事実、特に大正七年の公正証書による和解成立後大正九年の訴訟に至るまでの経過、該訴訟における示談の点、本件訴訟の近因としての被告側からの申入、これに対する原告側の態度、本訴をめぐつて間部房丸等の提起した訴訟の内容等に弁論の全趣旨を併せ考えると、原告先代高木友太郎が大正九年の訴訟確定後その死亡までの間被告美朗に商標の使用を許諾したとは到底受けとれず、この点に関して証人間部房丸の証言中前記大正九年の訴訟が確定したのち同人が仲裁に入つて再び大正七年の使用許諾の和解が復活したとの供述部分は証人高木万次郎の証言(第一回)や前認定の経過に照らし、他に適確な証拠のない本件においては軽々に信用し難く、したがつて被告美朗、同敏臣各本人尋問(被告美朗分は第一回)中右間部証言を支持する部分は勿論のこと、昭和三十年五月本件についての仮処分の執行を受けるまで戦時中の企業整備による数年間の休業期間を除き一貫して菓子類の製造販売をなしてきたが、その間一度も異議や差止めを受けたことなしとする趣旨の供述部分も、さきに排斥した間部証言を除き、他にこれを支える適確な証拠のみあたらない本件においては、前記結論を覆えして被告美朗の使用許諾の抗弁を肯認させる資料として採用の限りでない。

次に被告美朗の先使用の抗弁につき判断する。

被告美朗はその先代山崎宗三郎が原告先代高木友太郎の商標権取得以前より現在被告の使用している別紙第二の(三)記載の面を使用して「博多せんべい」の名称で煎餅の製造販売をなしていたからそれを引き継いだ被告美朗には先使用権がある旨主張し、

成立に争のない乙第八乃至第十三号証に証人中村源三郎の証言及び被告美朗本人尋問の結果(第二回)を綜合すれば、

被告美朗先代山崎宗三郎は明治三十七年五月十日九州鉄道株式会社より吉塚駅構内売店経営の許可を受けていたが、その後被告美朗にその経営権が引き継がれていること、及び右売店においては菓子、果物、煙草、燐寸、飯料水、玩具等が販売されていた事実を認めることはできるけれども、果して右茶店開設当時の明治三十七、八年頃右茶店において被告美朗の主張するように別紙第二の(三)記載の面を使用した「博多せんべい」が売られていたかどうかは明らかでなく、この点に関し被告の援用する乙第十五号証の写真は、後記認定するように、その撮影時期が大正三年以降のものであると認められるので、右被告美朗の主張を裏付ける証拠としては採用し難く、証人中村源三郎のこの点に関する供述部分は証人高木萬次郎、同高松小十の証言(いずれも第二回)と対比して直ちに信用できない。かえつて成立に争のない甲第六十三号乃至第六十五号証に、証人兵頭ヒサヨ、同高松小十、同高木萬次郎の各証言を綜合すれば、

原告先代高木友太郎は博多駅に売店を開いていたが、すゝめる人もあつて博多の土産品製造を思いたち、神戸の瓦煎餅を参考として古くから博多に伝わる博多二〇加に使用する面を煎餅に使用することを明治四十二、三年頃考案して二〇加煎餅の製造を始め、爾来家業として菓子の製造販売を営んできたこと、その当時右友太郎以外ににわか面を使用して煎餅の製造販売をする者はいなかつたこと、その後右友太郎と被告美朗との間に大正六年頃から大正十年頃まで前記のように告訴、審判、訴訟事件等の紛争が繰り返えされたが、そのいづれにおいても被告美朗から先使用の事実についての主張は全くなされたことがなかつたこと、ところで乙第十五号証の写真の台紙には「博多古門戸町ニコニコ写真館T.HIODO」の記載がなされており、当時博多古門戸町にはニコニコ写真館の名称で写真業を営んでいたのは兵頭多平たゞ一人であつたところからして右の「T.HIODO」とは兵頭多平のことであること、同人は大正三年八月二十五日広島県より福岡市に転入し大正九年四月一日に死亡しているので、前記写真は少くともその間に作成されたもので、写真の裏面にある「明治三十八年五月十五日影ス、支店開設、案内所設置記念」なる文字はその後記入されたもので写真の撮影年月日としては首肯し難いことなどを認めることができ、さきに排斥した各証拠を除けば他に以上の認定を左右する証拠はない。

してみれば被告美朗の先使用の抗弁が理由がないのは当然である。尚被告美朗は別紙第二の(二)記載の面、すなわち被告が使用許諾を得たと主張しているもと登録第八四四七八号は商標権存続期間の満了により消滅に帰したから、それ以前に使用していた被告美朗には先使用権が発生しているとも主張しているようであるが、なるほど各成立に争のない甲第二号証の三及び甲第十三号証の三十五によれば、右商標権が大正六年二月二十三日より同二十六年二月二十三日(昭和十二年二月二十三日に当る)までの二十年の商標権存続期間満了と共に一応消滅したものを、その後二週間足らずの同年三月四日に合名会社高木東雲堂が改めて出願し、昭和十三年七月十四日に登録第三〇四三六六号の商標として登録していることが認められるけれども、この事実をもつて被告美朗の主張するように先使用権ありとなすわけにはゆかない。蓋し右甲第二号証の三、第十三号証の三十五によつて明らかなように、右商標権は登録商標第三九八二〇号ほか八つの登録商標と聯合している聯合商標の一部であつて、その権利範囲は他の聯合商標によつて充分に確保されているのであるから、これが消長は右聯合商標全部について確保されている権利範囲を左右するものとはいい得ないばかりでなく、さきに認定したように、被告美朗の商標権侵害行為は右聯合商標の全部につきそれぞれの権利範囲に属するにわか面と類似してそれを侵害しているのであるからである。

してみれば被告美朗の先使用の抗弁もまた失当たるに帰する。

以上被告美朗の抗弁はいづれも理由がなく、さきに認定した原告と被告美朗との間における本件訴訟に至るまでの経過に弁論の全趣旨を併せ考えると爾後この種紛争が原被告間に全く生じ得ないとはいえないので、原告はその商標権に基き被告美朗に対し商標専用権侵害及びその保全を理由として主文第一項記載の所為(現実の侵害行為としては別紙第二の(三)記載の面及び(四)記載の二〇加の文字を煎餅、饅頭、最中、おこし等の菓子類や容器、由来書、包装紙等に使用して製造販売拡布する行為)の差止めを請求し得るものといわねばならない。しかして以上判断したところに弁論の全趣旨を綜合すれば被告美朗は故意又は少くとも過失によつて原告の商標権を侵害しているものというべきであつて、不法行為上の責任を免れ得ないものといわねばならない。

そこで原告の請求する謝罪広告並びに損害賠償について判断する。

さきに説示したところに証人後藤長蔵、同窪広太、同桜木謙澄の各証言を綜合すれば、被告美朗が原告の商標権を侵害して製造販売している煎餅等につき、原告は顧客、小売店から原告製品より質が劣つているとしてその旨注意を受けたこと、これによつて原告の営業上の信用が毀損されたこと、及び原告先代高木友太郎を被告美朗間の大正年代の二〇加煎餅をめぐる紛争は長年月を経過して世人に忘れ去られているので被告美朗の前記のようなにわか面や二〇加の文字を使用しての菓子類の製造販売を差止めても原告の蒙つた営業上の信用毀損は仲々回復し難いことなどを窺うに足り、他にこれに反する証拠はない。したがつて原告の請求する謝罪広告は右営業上の信用毀損を回復する手段としてこれを許すべきであるが、その程度方法については別紙第四記載の条件並びに広告文面をもつて充分であると認めるのでこの限度においてこれを認容することとする。

次に原告の請求する金銭賠償の点であるが、成立に争のない甲第五十六号証と前記後藤、窪、桜木証人等の各証言及び原告及び被告美朗(第一回)各本人尋問の結果によれば、

被告美朗の商標権侵害行為は煎餅のみならず饅頭、最中、おこし等その営業に係る全商品に及び且つそれは少くとも昭和二十六年以降継続してなされていること、その所得金額は、昭和二十六年分が金四十六万円、昭和二十七年分が金五十万円、昭和二十八年分が金五十五万円、昭和二十九年分が金六十五万九千九百円、昭和三十年分が金四十一万六千七百円となつていることが認められるけれども、いまだこれだけの事実をもつてしては原告が被告美朗の商標権侵害行為により現実に蒙つた損害額は幾何であるかを確定することはできない。蓋し被告美朗の所得即原告の現実損害とは軽々に言い得ず、他に原告の蒙つた実損害が幾何であるかを確定する資料は存しないからである。

したがつて原告の金銭賠償の請求は棄却を免れない。

二、被告山崎敏臣に対する請求について。

成立に争のない甲第五十六号証に証人窪広太の証言及び被告山崎美朗(第一回)、同敏臣各本人尋問の結果を綜合すれば、

被告敏臣は昭和二十五年(当時二十三才位)に学業を終え、他に就職の予定でいたところ、人手不足から父の家業に従事するようにいわれ、その頃から家業の菓子、製造販売に従事していること、同人は被告美朗の長男ではあるが他に養子の兄がいて実際上は次男のような立場にあること、そして家業の菓子製造販売は被告美朗が采配を振い、養子の兄、敏臣、弟、妹等の家族によつて経営されており、税金面でも被告敏臣は家族専従となつていて独立した営業主として取り扱われていないこと、及び本件訴訟に至るまで原、被告間になされた交渉、即ち被告美朗から原告に対するチヨンマゲ半面使用についての申入に際しても、美朗が老齢となり子供にはつきりしたものを残してやりたいことがその理由となつていたこと、これに対する原告からの使用差止めを交渉した際も被告敏臣は自分は子供であるから父美朗に交渉して貰いたい旨伝えていることなどを認めることができる。右事実よりすれば、被告敏臣を共同事業主と認めることは困難で、同人は事業主たる父美朗の家族として、その家業に専従して従業員に近い立場にある者といわねばならず、使用主たる父美朗の指図に従つて業務を分担している者であり、したがつて又原告の主張するように共同不法行為者にも当らないと解される。たゞ問題は前掲甲第五十号証(菓子経済新聞)に被告敏臣名義で松陽堂の名のもとに広告がなされている点や、成立に争のない甲第六十二号証の一、二から明らかなように被告方店舖の家屋及び敷地を所有している点及び証人立山光雪の証言により被告敏臣名義の小切手で砂糖代金が支払われていることなどがみとめられる点にあるが、広告についてはこの種業界新聞に有り勝ちなことで、被告敏臣の供述するように名刺を与えられてそのまゝ事業主と誤解して掲載したものとも考えられるし、家屋の所有、及び砂糖代金の点は直ちに被告敏臣が共同事業主であることとは結びつかないから(蓋し名義のみで実質は異る場合が考え得られる)いづれも被告敏臣が共同事業主であることを窺わしめる有力な徴憑であることは認められても、これらの事実をもつてしては未だ前記結論を覆えして被告敏臣を共同事業主或は共同不法行為者と目するについての心証を惹くに至らない。

してみれば被告敏臣に対する原告の請求は爾余の点の判断を俟つまでもなく失当であるといわねばならない。

よつて原告の本訴請求のうち被告山崎美朗に対する部分は前説示の限度でこれを認容すべく、その余の部分並びに被告山崎敏臣に対する部分はいづれもこれを失当として棄却することとし、民事訴訟法第八十九条、第九十二条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 川井立夫 村上悦雄 麻上正信)

第一、

登録商標

(一) 第三九八二〇号 第六五一一八号 第八〇六五七号 第八〇六五八号 第八〇六五九号 第八〇六六〇号 第八〇六六一号 第八〇六六二号 第八〇六六三号 第八〇六六四号 第八五一四三号 第八六一二二号 第八六一二三号 第九一二〇二号 第九一二〇三号 第一一六九九七号 第一一七三〇八号 第一一七三〇九号 第一二〇四四七号 第一二〇四四八号 第一二二九六八号 第一三〇〇五六号 第一三〇〇五七号 第一三〇〇五八号 第一三〇〇五九号 第一三〇〇六〇号 第一三〇〇六一号 第一三〇〇六二号 第一三四七一三号 第一三五六二九号 第一三五六三〇号 第一三五六三一号 第二九八〇八四号 第三〇四三六五号 第三〇四三六六号

(二) 第四〇一〇〇二号 第四〇一〇〇三号 第四二〇八四一号 第四二〇八四二号 第四二〇八三五号 第四二〇八三六号 第四三八五五八号 第四三九五五六号

第二〈画像省略〉

第三〈画像省略〉

第四、

一、掲載すべき新聞 朝日新聞(西部本社小倉市)

毎日新聞(西部本社門司市)

西日本新聞(福岡市)

の各朝刊全版通し、但し朝日毎日両新聞は西日本版全般通し

二、掲載回数 各一回

三、活字の大きさ 表題は三倍活字、原被告の氏名、住所、店舗名は二倍活字、その他は一倍半活字の三段組

四、広告文面

謝罪広告

福岡市馬出万世町一一二九番地

山崎松陽堂

山崎美朗

福岡市下祗園町四〇番地ノ一

二〇加煎餅本舗高木東雲堂

高木勝太郎殿

私儀

その製造販売にかゝる煎餅、饅頭、最中、おこし等の菓子類に、にわか面や二〇加の文字を使用して貴殿の商標権を侵害すると共に営業上の信用を毀損したことを深くお詑びいたします。

第五、

謝罪広告

福岡市馬出万世町一一二九番地

山崎松陽堂

山崎美朗

山崎敏臣

福岡市下祗園町四〇番地ノ一

二〇加煎餅本舗高木東雲堂

高木勝太郎殿

高木東雲堂御製造の仁〇加煎餅、仁〇加饅頭、仁〇加最中、仁〇加おこし等の菓子類は博多仁輪加に使用する仮面に因したる形状、図形、文字若しくは記号又はその組合せを以つてする商標及び意匠を貴殿の先代高木友太郎氏が創案登録され爾来古くから広く博多の名産として全国に認められているものでありますがこゝ数年来拙者等父子において仁〇加面の登録商標権を侵害して左記写真の如き同一又は類似の商標を使用し貴殿御製造の品々に類似模造せる粗悪品を製造販売拡布し貴店の営業上の信用を毀損し多大の御損害をお被けして来ましたことは誠に申訳なくこゝに紙上を以つて深くお詑びすると共に一般愛好者各位に陳謝致します。

追つて爾今一切貴店の商標権の侵害行為は誓つて致しません。

〈画像省略〉

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